すがりつかず、踏みしめる。 [ポリシー]
早く踏み出さなければ。
それは分かっています。分かっているつもりです。
イベント出展やネット投稿で作品をただ並べていれば、誰かが仕事の話を持ってくるわけじゃない。
ほんの何年か前には、デザイナー職採用とかイラストレーター募集という選考に、もっと甘い心構えでエントリーしては、落とされていました。
CGの使い方をもっと上達させないと通用しないのか、もっと大量の作品を作らなければ相手にされないのか。
売り込むための支えになる物は何だろう。
そんなことを悩んで、試行錯誤を重ねて、今があります。
でも、イベント出展なんて抽選に落ちれば、次の機会は何か月も先に遠のいていく。
ネット上での作品公開も、しっかりした地盤を造るというには程遠いものです。
作品を画面に映していると、まるで自分が主役になったかのような気がするけれど、他人の目からは、検索するのも面倒な、ちっぽけなものでしかない。
ネット上の私の作品など、人混みに埋もれる小さな露店ひとつ程度のものです。要するにイベント会場と変わらない。
ちゃんと売り込んで、作品による収入を確保するまでは、油断できない。
少しばかり作業を片付けただけで、まるで何かを成し遂げたかのように、ほっとするなんて間違っている。
「投稿が完了しました」と画面に出てくると安心するなんて、私も甘いものです。
こんな投稿が本当の実績なのではない。
それなら、今までやって来たことは何の積み重ねなんだろう…そう考える時があります。
経験だろうか…つまり、技術や知恵の蓄積だろうか。と、思ったことがあります。
自分の特技や性格に合う道は何なのかと、懸命に探ってきた経験だけが、誰の思惑にも振り回されない。何者にも崩されない。
学んで身につけたことは、抽選なんかで落とされても、無かったことにはなりませんから。
自分が積み重ねて、今踏みしめていることが何なのか気が付いたのだから、すがりついてはならないものも、見分けがつくはずです。
踏み出さなければ。と言っても、地味な準備作業の日々ですけれど。
創作活動ができる日でありますように。 [ポリシー]
今日も作品の準備をしています。
アイデアを書きとめて、計画を組み立てて、がんばっていますとブログに書きこんでいます。
いつの日か、好きで好きで仕方がないことを仕事にして、立派に稼いでいけるようになるためです。
まだたどり着いていない目標だけれど、自分の気持ちひとつで目標めざして進める私は、きっと恵まれているのだと思います。
気持ちではどうにもならない災いに巻き込まれて、仕事や住まいを失うのは、ひどく不幸なことです。
補助的なお金を受け取ることができても、それは最悪の事態を防いでいるだけであって、幸せな境遇にたどり着いたわけではないはずです。
好きで好きでしかたないことを仕事にできないまま、自分の能力や性格と無関係な仕事をしているのでは、真に評価されているのではないし、自分の向上心が満たされる時が来ません。
そんな立場で食べ物や寝起きの場所だけ確保できても、幸せな生活とは言えないはずです。(ましてや、そのうえ取り分がわずかで立場も危ういのでは、やりきれません)
災害で、戦争で、仕事ができなくなった人、住み慣れた土地を離れなければならなくなった人、そういう人たちのつらさを私たちは想像し、理解することができるはずです。
自分の技能や人格を尊重されない、しかるべき職業や収入にたどり着けない私たちの延長線上に、災いにあった人たちのつらさがあるのだと思います。
「想像できないほど運の悪いやつら」などと突き放すことは、あってはならないことです。
困難にあっている人を差別するなど、あってはならないことです。
共通点のような気がするところをたぐりよせて「ぼくらだって、あのひとたちといっしょだ」と言っている方がいいと思います。
「お前に何が分かるんだ」と言われるかもしれません。
自分が被災したわけでもない、難民になったわけでもない。何か言う資格があるのか、と。
けれども、人間は言葉で伝えあう生き物です。見聞きしたことから想像力を働かせて、別のところに当てはめることができる、知恵を持つ生き物です。
自分が直接体験したことしか理解できないのは愚かです。
ついでに言えば、私もアーティストのはしくれです。流行を後から追いかける立場ではありません。
今の世の中、壁で社会を分断して、自分の同類か敵かを選り分けることが大流行のようですから、私は流行には流されないことにします。
相手を杓子定規に追い払っていれば、私たちの相手を見る目も育ちません。
自分が同じように災害に巻き込まれたらと思って、非常時の備えをしておくことも忘れてしまうでしょう。
私は偽善者でもないし、模範的優等生でもありません。きれいごとのためではなくて、仕事獲得めざす私を突き放すことが、私の作品制作を毛嫌いすることが、許せないからです。
そんなことを正当化する薄情な縄張り根性こそ、私が共有したくないものです。
だから今日もアイデアを書きとめて、作品の準備をしています。
2011年の地震と原発事故を忘れません。
災いが絶対に起きない場所など、この世界のどこにも無いと、私たちは知っています。
備えるべきこと、追い求めるもの、終わらせるべきもの。賢く見定めて進んでゆけると信じます。
個人で選んだ道を [ポリシー]
作品の作り方の検討、下準備、地味ですが進めています。地味な日々の経過報告なので、つまらない記事です。
Blenderで、これまで使っていなかった機能をいくつか採り入れています。
設定する項目が多くて準備が面倒だったものもあれば、これまでは別の機能で似たようなことをしていた、というものもあります。けれども全く同じ機能ではないので、採り入れると新しい表現方法の手がかりになると思います。
採り入れたのは、11月にデザインフェスタで公開した1ページ完結の漫画からでした。
新しい機能と言っても、それで作風をがらりと変えているわけではありません。目指すべきものは選んでいるつもりです。偶然たどり着いたところを、実はここがゴールでござい、というようなことはしていないつもりです。
作品づくりとは、どの道をたどるのか自分で決めるものではないでしょうか。
自分が作りたい画面に合わせて、つまり、あれがゴールだと判断したところを目指して、そこへの道を自分で決めるものなんです。誰かと争うためではないのです。
自分で判断しないで他人に振り回されても、つまらないことです。
アナログな鉛筆やペンで絵を描いていた頃は、時代遅れだとけなされました。今CGソフトで描いていると、アナログの絵をほめたたえる人ばかりがやって来るような気がします。誰かの命令や批評に引きずられてばかりでは、どんなにさまよっても「実はここはお前のゴールじゃないんだ」ばかりになってしまう。
自分の道を自分で決めてゆきます。そうすれば、気の休まる時もあって、自分が納得できることを達成する時もあるのだと思います。
自分が反面教師にならないように、気をつけないと。 [ポリシー]
CGソフトで画像を描いて、配置して紙面として仕上げる作業は迷うことなく進められますが、その前のシナリオを作る段階で、いつも迷って時間を費やしてしまいます。
手っ取り早くストーリーを大量生産するような方法は無いのかと、つい思ってしまいます。
例えば、ありふれたテレビドラマや映画のように、毎回どうしようもなく邪悪な敵が現れて、主人公が軽快にやっつけてしまうとか。
でも、すぐに思い直します。そういう安っぽい筋書きを数えきれないほど見てきたから、市販のコンテンツをチェックするのが嫌になったんだと、思い出すんです。
戦って相手を打ちのめすしかないというシチュエーションは時代遅れでしかありません。我々には宣戦布告をする権利がある、君たちの領土へいつでも攻め込むことができる、そんなことを宣言しても役に立ちません。
現実には、脅威をもたらす人々というものは、もっとはるかに巧妙で陰湿です。
そして、誰かを敵視して、それを正義だと信じることも、邪悪な敵というものを別の視点から見せているものでしかありません。
いじめは悪いことだと説教する人がいます。いじめている当人は、標的の人に何かの非があるから、正当な報復をしているのだと思い込んでいます。被害者から見ると悪人、そして当の加害者は自分のことを、正義のいじめを武器に戦うヒーローだと思い込んでいる。そんなことはよくあります。絶対的に正しい正義や悪なんて、実験室のような環境で作るものでしょう。生身の人間はそこにはいません。
わき役をたくさん作ろうかと思ったこともありました。画面に出して楽しくなるキャラクターならいいでしょう。以前探検隊のキャラクター達を作成した時は、それなりにユーモアのある画面を描けました。
けれど、ぱっとしない外見の、いわば他人・よそ者専用のキャラクターを作っても、面白い作品にはならないだろうと思います。
人体の3Dデータの作成には何日もかかるから、という技術上の理由もあります。
もう一つの理由は意識面のことです。主人公と違う、というより、明らかに劣るような人をあえてデザインして画面に出すのは、なんだか創作上に身分の差を出すような気がしてきたんです。
自分は重大な役目についているから、他の者たちの仕事や自由を奪ってよい。お前たちの義務は、我々に奉仕することだ。そういううぬぼれた者が、ささいな理由で自分を特権階級だと思い込んだ者が、ひとに対してどれほど残酷になるのか。私たちは忘れないようにしなければなりません。身のまわりでも、ニュースでも、過去の歴史でも、実例は枚挙にいとまがないものです。
人気が出そうなキャラクター、イラストや物語、こうして記事を書くときに主役になれるキャラクターこそ、つくりがいがあるというものです。
忘れてしまって作品を作る立場になると、昔の自分がうんざりしていたような、つまらない作品を作ってばかり、にもなりかねません。気を付けないと。
手っ取り早くストーリーを大量生産するような方法は無いのかと、つい思ってしまいます。
例えば、ありふれたテレビドラマや映画のように、毎回どうしようもなく邪悪な敵が現れて、主人公が軽快にやっつけてしまうとか。
でも、すぐに思い直します。そういう安っぽい筋書きを数えきれないほど見てきたから、市販のコンテンツをチェックするのが嫌になったんだと、思い出すんです。
戦って相手を打ちのめすしかないというシチュエーションは時代遅れでしかありません。我々には宣戦布告をする権利がある、君たちの領土へいつでも攻め込むことができる、そんなことを宣言しても役に立ちません。
現実には、脅威をもたらす人々というものは、もっとはるかに巧妙で陰湿です。
そして、誰かを敵視して、それを正義だと信じることも、邪悪な敵というものを別の視点から見せているものでしかありません。
いじめは悪いことだと説教する人がいます。いじめている当人は、標的の人に何かの非があるから、正当な報復をしているのだと思い込んでいます。被害者から見ると悪人、そして当の加害者は自分のことを、正義のいじめを武器に戦うヒーローだと思い込んでいる。そんなことはよくあります。絶対的に正しい正義や悪なんて、実験室のような環境で作るものでしょう。生身の人間はそこにはいません。
わき役をたくさん作ろうかと思ったこともありました。画面に出して楽しくなるキャラクターならいいでしょう。以前探検隊のキャラクター達を作成した時は、それなりにユーモアのある画面を描けました。
けれど、ぱっとしない外見の、いわば他人・よそ者専用のキャラクターを作っても、面白い作品にはならないだろうと思います。
人体の3Dデータの作成には何日もかかるから、という技術上の理由もあります。
もう一つの理由は意識面のことです。主人公と違う、というより、明らかに劣るような人をあえてデザインして画面に出すのは、なんだか創作上に身分の差を出すような気がしてきたんです。
自分は重大な役目についているから、他の者たちの仕事や自由を奪ってよい。お前たちの義務は、我々に奉仕することだ。そういううぬぼれた者が、ささいな理由で自分を特権階級だと思い込んだ者が、ひとに対してどれほど残酷になるのか。私たちは忘れないようにしなければなりません。身のまわりでも、ニュースでも、過去の歴史でも、実例は枚挙にいとまがないものです。
人気が出そうなキャラクター、イラストや物語、こうして記事を書くときに主役になれるキャラクターこそ、つくりがいがあるというものです。
忘れてしまって作品を作る立場になると、昔の自分がうんざりしていたような、つまらない作品を作ってばかり、にもなりかねません。気を付けないと。
敵ができる世界はお好きですか? [ポリシー]
先月制作した漫画について、大したシナリオではないけれど時間がなくなるから執筆を始めた…とブログに書いたことがありました。
実は、戦いを省くつもりでした。敵が出てこないシナリオにしたかったんです。
この前の漫画には得体の知れない化け物が登場して、物陰から主人公たちに向かって野次をぶつけていました。
当初は化け物ではなく、人間が主人公への悪口を並べ立てる話も考えていました。
けれども、考えていて、嫌な気分になってきました。その悪役の人間は、なぜそこまでゆがんだ心の持ち主になったのか、どうして主人公は、そんな人間と関わる仕事をしなければならないのか…面白くない作品制作になるところでした。
戦っても、物事は解決しないものです。
いつでも武器を出せるんだと周囲を脅しても、周りと親しくなれるわけではありません。
武器を見せびらかすことが戦いを防ぐ、という人もいます。しかし、周りの人たちを絶えずおびえさせていることなど、平和とは言えません。
関係がうまくいかない相手とは、まず話し合いのはずです。どうやって戦うかばかりに集中するのは、相手との関係がこじれて取り返しがつかなくなる時を待っているかのようです。
誰かが争っている場に、武器を持って加勢に行くのも愚かなことです。どちらか一方が友達だから、という幼稚な図式ではありません。現実の争いというのは、どちらにどんな非があって、何が原因なのか、複雑な問題です。たとえ困難でも、両方の間に入って言い分を比べて、解決策を探すべきです。
一度加害者になった者は、被害者からの強い憎しみを買い、周囲からは不信を買うものです。傷つける手段や挑発する手口を使うのは、自らの立場を悪くする行為です。
危険な敵というものは、ある日突然現れるものではないのです。私たちは現実の社会で生きてゆくうちに、どんなことをすれば誰が敵意を抱くのか、どういうことが争いのきっかけになるのかを学んでいるはずです。
身近にいる誰かが敵になる前に、危険な者がすぐそばにやってくる前に、そして武器を取り出す前に、するべきことがあるんです。
相手のメンバーを皆殺しにするという争いの終わらせ方は、現実とはいえません。一度争いを始めたら、どうやって終わらせるかを必死で探る、困難な道しかありません。
どうやって戦うかの前に、戦いをしないためには何が出来るのかを地道に考えることが合理的なんです。
この種のことは、ずっと昔、もっと安っぽいシナリオばかり考えていて気がついてきたことです。
それでも時間のやりくりが下手だったばかりに、結局今回の漫画は、これまでの経験を活かしきれない、安っぽさの残るシナリオにしてしまったのでした。
せめて人間同士で争う話にはしないようにしました。それで得体の知れないお化けだったというわけです。
もしかすると生き物ですらなくて、主人公や私たちの心の中にうごめく、不安や憂鬱そのものがキャラクター化したものかもしれません。
現実、勇気や強さは必要です。けれどもそれは、誰かと戦うためではなく、愚かな争いを起こさないための勇気・強さなんだと思います。
めざします、ひとり残らず公開 [ポリシー]
新しいハードルに、つまずいたようでした。 [ポリシー]
11月3日の出展、無事終わりました。
実は作品づくりがちっとも進まなかったのに、応援してもらって、ブースに立ち寄ってもらって、感謝のしようもありません。
だいぶ前にもブログで触れましたけれど(4月18日「新しいハードル、でもこれは、とべそう」)、デザイン・フェスタへの出展希望者は、今回から抽選になりました。
半年前は、抽選を通らなかった場合に備えて何をすればよいか考えながら、作品の計画を立てていました。
それで注意を向けていたのが、同人誌即売会でした。ビッグサイトでも毎年いくつかの即売会が開催されるから、デザイン・フェスタで展示できなくても、発表のチャンスがあるかもしれないと思っていたのでした。
同人誌は作ったことが無かったので、早くから検討に入りました。本に書くための内容を考えたり、本の原稿として絵や文章を作成するために何が必要か調べたりする作業でした。
デザイン・フェスタのような場で展示することには比較的慣れてきたので、こっちは後回しにして、同人誌に時間を割きました。
これが今思えば、失敗の始まりでした。
本の内容をどうするか、自分なりの方針が決まらなかったんです。
創作でも、活動の体験記でも、ブログやPixivに載せることができるのに、あえて本にして、お金を払って買ってもらう内容とは、どんなものにすればいいんだろう。
確かに、ウェブで公開している内容を本にまとめて出版している人もいる。それなら自分もそうするのか。そんなふうに悩んでいました。
夏になって知らせが届き、11月のデザイン・フェスタに出展できることが分かりました。
この時、出展準備に専念すればよかったのかもしれません。ところが、今まで時間を割いたのが無駄になると思って、同人誌の検討も続けることにしたのでした。
抽選通過した時にどうするか、決めていなかったのが失敗だったのでしょう。
同人誌の内容が決まったら、展示用の絵を描こうと考えていたのでした。それで、同人誌の内容が決まらなくて、展示用の絵の作成にも入れないという、まさに二兎を追う者になっていたんです。
本を作ろうとは、今は考えないほうがいい。物語や記事はウェブに掲載して、イベントでは大きい作品を描いて、広いスペースを借りて展示するのがいい。同人誌即売会に出たことは無いけれど、この展示のしかたなら、何度かうまくこなしてきたじゃないか。
そう気付いたのが9月の後半でした。
5月に申し込んでからの半年の期間の大半が水の泡なのかと、ぼうぜんとしながら、なんとかアイデアを出して絵を描こうとしました。
できあがった絵はわずかでした。それで当日は、前回の出展までに描いた絵も展示して、何とかとりつくろったようなものでした。
思い出しても面白くは無いけれど、まあ、失敗も経験のうちです。今年の春は何とかなると思っていたハードルに、こうして足をとられていたんです。
今度こそは、もっとましな計画を立てます。このブログやPixivでの作品発表と、次のデザイン・フェスタ出展への準備と、それから、抽選を通れなかった場合の、別の作品展示の場の探し方と。どれも成り立つ、私なりの方法を探ってゆくつもりです。
実は作品づくりがちっとも進まなかったのに、応援してもらって、ブースに立ち寄ってもらって、感謝のしようもありません。
だいぶ前にもブログで触れましたけれど(4月18日「新しいハードル、でもこれは、とべそう」)、デザイン・フェスタへの出展希望者は、今回から抽選になりました。
半年前は、抽選を通らなかった場合に備えて何をすればよいか考えながら、作品の計画を立てていました。
それで注意を向けていたのが、同人誌即売会でした。ビッグサイトでも毎年いくつかの即売会が開催されるから、デザイン・フェスタで展示できなくても、発表のチャンスがあるかもしれないと思っていたのでした。
同人誌は作ったことが無かったので、早くから検討に入りました。本に書くための内容を考えたり、本の原稿として絵や文章を作成するために何が必要か調べたりする作業でした。
デザイン・フェスタのような場で展示することには比較的慣れてきたので、こっちは後回しにして、同人誌に時間を割きました。
これが今思えば、失敗の始まりでした。
本の内容をどうするか、自分なりの方針が決まらなかったんです。
創作でも、活動の体験記でも、ブログやPixivに載せることができるのに、あえて本にして、お金を払って買ってもらう内容とは、どんなものにすればいいんだろう。
確かに、ウェブで公開している内容を本にまとめて出版している人もいる。それなら自分もそうするのか。そんなふうに悩んでいました。
夏になって知らせが届き、11月のデザイン・フェスタに出展できることが分かりました。
この時、出展準備に専念すればよかったのかもしれません。ところが、今まで時間を割いたのが無駄になると思って、同人誌の検討も続けることにしたのでした。
抽選通過した時にどうするか、決めていなかったのが失敗だったのでしょう。
同人誌の内容が決まったら、展示用の絵を描こうと考えていたのでした。それで、同人誌の内容が決まらなくて、展示用の絵の作成にも入れないという、まさに二兎を追う者になっていたんです。
本を作ろうとは、今は考えないほうがいい。物語や記事はウェブに掲載して、イベントでは大きい作品を描いて、広いスペースを借りて展示するのがいい。同人誌即売会に出たことは無いけれど、この展示のしかたなら、何度かうまくこなしてきたじゃないか。
そう気付いたのが9月の後半でした。
5月に申し込んでからの半年の期間の大半が水の泡なのかと、ぼうぜんとしながら、なんとかアイデアを出して絵を描こうとしました。
できあがった絵はわずかでした。それで当日は、前回の出展までに描いた絵も展示して、何とかとりつくろったようなものでした。
思い出しても面白くは無いけれど、まあ、失敗も経験のうちです。今年の春は何とかなると思っていたハードルに、こうして足をとられていたんです。
今度こそは、もっとましな計画を立てます。このブログやPixivでの作品発表と、次のデザイン・フェスタ出展への準備と、それから、抽選を通れなかった場合の、別の作品展示の場の探し方と。どれも成り立つ、私なりの方法を探ってゆくつもりです。
作れば静まる、つらい月日も越えてゆける。 [ポリシー]
11月3日のデザイン・フェスタ出展の準備、何とか進めています。
作品の大半は、これまでの出展やウェブ上で発表したイラストになると思います。新作はほんのわずかですが、できる限りよい出展にするつもりです。
足を止めるお客さんは多くないかもしれないけれど、だからと言って投げやりな態度はとらないことにします。
出展当日の態度が悪かったとかで、今後の出展者募集で受け付けられなくなっては大変です。
それに何より、ほんの少しでもブースに立ち寄ってくれるお客さんがいるのならば、悪い印象を与えてはならないんです。
おかげさまで最近は、このブログもページビュー数ゼロの日が、だいぶ少なくなりました。こんな記事を読みに来てくれて、ありがとうございます。
公表できる段階にならなかった失敗作も、たくさんあるけれど、とらえ方を変えたいと思います。
がんばったから、たくさんの失敗を味わったんだと思います。マンガの主人公じゃないんだから、サクセスストーリーとはいかないのでしょう。
何も発展させようとしない、他人のまねをするだけ、そんなものだったら、さぞ楽でしょう。
作品の作り方、スケジュール管理、そのほか色んなことに真剣に向かい合って、工夫をしようとがんばったから、つらい月日だったのだと思います。
もちろん、作品を審査して、作り手と取引する立場の人たちから見れば、失敗作ばかりのがんばり屋なんかに用は無いでしょう。
だから今度は、成功を増やしてゆくレベルをめざして、つらい月日を続けてゆくのでしょう。
私の創作活動に大革命は起きていないけれど、小さな改善はいくつもあって、少しずつ向上しています。
今年の初めあたりは、Blenderで主役キャラクターの手足ひとつ動かすだけで手間取って、小さなイラスト一枚に数時間かけたこともありました。
今は数時間もあれば、Blenderで生き物や、観覧車などの構造物の3Dデータそのものを、完成させることができます。簡単な舞台装置のデータだったら、一時間で数個作ることもできます。
作品を作っているときが、いちばん心が静まるようです。
もちろん、何らかのトラブルが起きたら、対策をとるために時間を使うことになります。明日は大雨という予報だったら、外出する用事を別の日に移せるように調整します。どうやらネズミがいるようだ、となれば、ネズミ捕りをしかけなければいけません。
でも、他の用事でいそがしくても、つらいことがあっても、作品づくりをしない日は、無しにしてゆこうと思いました。
ごちそうは本番のあとで [ポリシー]
斎戒沐浴(さいかいもくよく)、という言葉があります。心を乱すことをしない、体に悪いことをしない、身も心も清める。そんな意味です。
そんな言い方も大げさかも知れませんけれど、重要な行事の前日・当日は、特別なことをしないように気をつけています。
こんな経験、無いでしょうか。明日は目上の人に会いに行くから落ち着かない、気分をまぎらすために、ふだんはしないような大掃除を始めてしまって、翌日疲れている。あるいは、試験を翌日に控えて、元気をつけるつもりで、特別にたくさんの肉料理を食べてしまって、試験当日は胃のあたりが重い、というようなこと。
私にも、そんな失敗がたくさんありました。だから、作品発表の直前は、家事のスケジュールや献立、睡眠時間などは、できる限り、いつもどおりを心がけています。
ただでさえプレッシャーの大きい用事が待ち受けているんですから、自分自身への負担を増やさないようにするんです。
私と違う人も、いるかもしれません。大事な勝負の直前はたくさん食べて、激しい準備運動をして、ボルテージを上げておく主義の人もいるんじゃないかと想像はしています。
けれども、私はそうじゃないと、自分で承知しています。頭の中で、これは気合を入れるためだと思っていても、その頭が痛くなったりします。むやみにのどが渇いたり、おなかが痛くなったりします。精神論とかというものには、自分の心も体もついていけないようです。
私は、コーヒーは普段飲んでいます。外出先でも、喫茶店などで飲むことがあります。
けれどもし、カフェインが苦手と言う人がいれば、不慣れな出先でもやはり、お茶とかコーヒーは避けるのが無難でしょう。
明日が受験当日だ、なんていう晩に、もたれそうな夕ごはんを食べるよりも、試験が終わったらトンカツ食べよう、なんて予定にするのが、いいかもしれませんね。
7月をふりかえる。でも後ろ向きにならないように。 [ポリシー]
7月も終わります。蒸し暑いからといって、しめっぽい愚痴を書いたりしないように、気をつけています。
新しいキャラクターを作成しました。久しぶりの、人間の女の子です。できるだけ早いうちに、ちゃんとした原稿を作って、このブログやPixivで活躍させてあげるつもりです。
七夕イラストを描いたり、シド・シスリットのデータや記事を作成する作業などと同時進行でした。少しは作業効率も向上したかな、と思うけれども、5月、6月よりもウェブ上での更新を少なくしてしまったのは反省です。
これまでよりも、時間を無駄にすることは減っているし、用事を放置してしまうことも少なくなりました。でも、まだ完璧じゃない。ここはゴールじゃない。するべきこと、目指すものが、まだたくさんあります。
それをいちいち並べるようなことはしません。「わたしはこれから…をします」とか、宣言ばかりを並べるのは、売れないブログでよくあることなんだと、教わったことがあります。キャラクター作成にしても、作品づくりにしても、実現が見えてきてから報告してゆきたいと思います。